2006夏 長野(松代)、松本、安曇野(穂高)

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(2日目)
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そして翌日、この日は松代観光です。

交通手段は、JR/しなの鉄道+長野電鉄、長野電鉄、直通バス、路線バスの4つがありますが、
この日は、途中で川中島古戦場跡(八幡原史跡公園)と典厩寺に寄りながら松代へ向かうので、路線バスを使用しました。

さて、まず立ち寄ったのが川中島古戦場跡です。







川中島合戦は、犀川と千曲川に挟まれたこの一帯で行われました。
この戦は武田信玄と上杉謙信の間で幾度にも渡り行われ、ついに決着が付かなかったことで有名です。







長野県は戦国時代の信濃国で、現在の山梨県を中心とする甲斐国と共に武田氏の拠点で、
ゴールデンウィークの南東北旅行で訪れた米沢は上杉の本拠地です。

米沢を訪れたとき、行われていた米沢上杉まつりでは、米沢市内の松川河川敷で
この川中島合戦を模したイベントが行われました。







さて、古戦場跡ですが、ここには社と川中島合戦絵図という大きなパネル、
そして、川中島合戦に縁のあるいくつかの史跡があります。







まず目に入ってくるのが、信玄と謙信の一騎打ちの様子を再現した像です。

その傍らには、孫子兵法の一節から採られた風林火山を印した武田の軍旗、
上杉謙信が信仰していた毘沙門天を表す毘を印した上杉の軍旗が立てられています。







その他にも逆槐(さかさえんじゅ)、三太刀七太刀之跡、執念の石などがあります。























三太刀七太刀之跡
乱戦の最中、上杉謙信他数騎が武田信玄の本陣を急襲したのは有名な話です。
このとき信玄は、謙信に馬上より斬りかかられ、信玄は一の太刀を軍配で受け、
二の太刀を腕で受け、三の太刀を肩で受けて傷を負ったのですが、
後で軍配を調べると、七つの刀傷が付いていたと云われ、それを記した碑となっています。







逆槐(さかさえんじゅ)
第4次川中島合戦で信玄が土塁を築くときに使用した杭が芽を出して、
成長したものと云われています。







執念の石
作戦の失敗で窮地に立たされた武田信玄の本陣に上杉謙信が切り込んできたとき、
間一髪、原大隈が謙信に槍の一閃を繰り出し、信玄の命を救いました。
その槍は鎧の肩上に抜け、謙信を取り逃してしまい憤懣やるかたない原大隈は、
傍らにあった石を槍で突き通した、その石と云われています。

といった感じです。














朝からあいにくの空模様で、川中島古戦場跡を見学してから、
典厩寺へ向かう途中で雨が降り始めました。











そんなに遠くはないだろうと思っていましたが、雨が降っていたからでしょうか遠く感じました。







典厩寺は元々鶴巣寺というお寺でしたが、川中島合戦で奮戦の末討ち死にした、
信玄の実弟武田典厩信繁の遺骸を、この寺の境内に埋葬したことから典厩塚となり、
合戦の後しばらくして、武田典厩の名をとって寺号を典厩寺と改めています。











お寺にはいるとすぐ左側に閻魔堂があり、日本一大きいといわれる閻魔像が安置されています。
傍らには、昨日刈萱山西光寺で見た地獄絵図のようなものが掛けられていました。







境内には、信玄の愛石、謙信の力石、典厩のお墓があります。
また、武田家に因む品が収蔵された蔵があり、頼むと鍵を開けて見ることが出来ます。



















次の目的地である松代に向かうため、典厩寺を出てバス通りまで向かいました。
典厩寺にいる間に雨は上がっていて、歩いている途中、若干日も差してきました。







運行間隔が30分くらいなので、バスが行ってしまった後なら歩いて橋を渡ろうと思っていましたが、
バス停に着いて時刻表を見ると、あと3分くらいで来るらしいので待つことに。







バスに乗り、十数分で松代駅に到着。